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信じ合っているか
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男女の関係
あらゆる知識の前提は信仰であるが、このことは男女がお互いについて持たなければならない知識に関しても同様である。だれかを知るためには、まず彼が存在するという事実を受けいれなければならない。しかもそれは、観念や表象やあるいは型としてではなく、人格として、すなわち責任を有する個人として存在することを受けいれなければならないのである。女は真に男の存在を認めているであろうか。女は昔男に服従したと同じように、今日も彼を無批判に模倣する。
当然のこととして模倣する。しかしそれは、男を人格として真面目に受けいれるのではない。それは単に抽象的な一つの規範として受け取ることである。彼女の態度は信仰でなく盲信を表明する。女が人間の規範でないと同様に、男も間の規範ではない。男と女はいっしょになって人間を構成する。心理学者、哲学者、神学者は、今日一つになってこの永遠の真理を強調している。ユング、メーダー、シュミッツ、キュンケル、エステル・ハーディング、その他の人々が、もし男女が相互の関係において進歩しないなら、人間は沈滞するということ、女性の解放は、女性が男性との心理的関係を新たに発見しなければ、その真の意味と正しい方向を見出し得ないこと、また男性の意識段階が高まれば必ず女性が精神的に発達することなどを指摘している。
そしてこのことは、そのまままた女性も彼女自身のより高い意識段階に到達しなければならないということを意味する。というのは、、今や女性にとって、男性は外界におけるのみならず内的生活に対しても、抽象的な規範となってしまったからである。無意識の中に、彼は彼女の精神的指令者となっている。この事実が、今日見られるような心理的肉体的な動揺に導くのである。しからば、男は女の存在を信じているであろうか。従来の女性の型に、タイピストとか婦人航空家とかいった新しい型の女性が加えられて進歩してはきたけれども、英国の最初の女権拡張論者が「女性は死んだ」という法の原理と戦い始めて以来、大して変化したとはいえない。
一方的な男性の心理がますます世界を支配し、男性が単に存在するということ自体が、いかなる正当な女性の魂の表現をも鎮圧している。なるほど、世界には女性的雰囲気が欠けているとか、地上にいまだ女性の存在の形式がその表出を見出せないという不平の声が、到るところに聞えているのはたしかである。しかし、かかるものとしての女性の存在に対する真摯な要求がない。彼女の曖昧な地位は、現実の経済問題にも比することができる。たとえばある国がたくさんの小麦を生産し、かつ石油に富んでいると仮定しよう。危機が勃発し、麦も石油も輸出することができなくなる。
各地に飢饒が荒れ狂うが、麦は過剰なものとして焼却し、油田の穴はふさがなくてはならない。それらを他の産業に利用することを試みても、その操作にあまりにも多くの費用がかかるらしい。女性の地位もこれと同様で、彼女はその天分や資質を輸出することを禁ぜられている。前者を破壊し、後者を抑圧しなければならない。「なぜ彼女はその麦を子供の玩具に用いないのか。なぜその石油を家庭用の蝋として用いないのか」と男性はいう。しかり、なぜであろう。これらはりっぱな仕事ではないか。たしかにそうである。が女性は魔法使ではない。
人間性の中には、自らを表現する方法を見出さなければならぬ力が存在する。もしその方法が禁ぜられるならば、驚くべき生に対する尊敬の欠如の徴が表われる。しかもそれは常に復讐する。女性の典型的な貢献は隠れたもので、家庭その他の通路をとおして目に見えない方法で社会に影響を与えるものであるということがいわれている。しかしそれが真実だとすれば、男子の優勢な世界において真実でありうるとすれば、この影響は今日非常に歪められている。たとえば、現代各国では到るところで母性の神聖さがりっぱな言説の中に称揚されている一方、危機や失業や轟ガス、細菌戦などに関する話が女性の日々の糧となっている。
もしこうした言説がどこまでも続くならば、女性は良心的な異論を申し立てることを決意するかも知れない。かくして彼女は自分が神聖の生産機械ではなく、責任ある人間であることを明らかにするであろう。このようなことを男性が考えつかないという事実こそ、彼が人格としての女性の存在をいかに信じていないかを示すものである。相手の存在に対するこの女性側の軽信と男性側の不信の態度が、相互の理解め上に最悪な条件を生み出す。それはあらゆる両性間の誤解と争闘の根源で、その鵬果は今日全く顕著である。
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