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信じ合っているか
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男性の一極性
女性は必死になっで自己の運命を求めており、しかもこの仕事は男性の助力なしにはほとんどなしえないのであるが、女性の個人的な進歩に対する無関心は、第二の極の存在に関する男性の不信にその原因がある。そしてその不信は、男性の無意識的な一極性に基づくものである。
エベルツは激越な調子でこういっている。「男性は単独な自己を人生の意味とみなし、その権力に対する意志の本能から、自分が選ばれたものであり無謬であるという神話を生みだす。それは単性的性格の自己陶酔症である」。さらにつづけて、「女性は誤らないようにしなければならないゆ彼女は自らを解放して、一見個々の男性から独立したもののごとくしたが、その実男性の無名の集団の権力の中にはいっていったに過ぎない」。ついでエペルツは、男が二様の方法で女の個性を滅ぼそうとしていることを断言している。第一は、彼には邪魔になるが彼女にとっては当り前であるような、潜在意識的および超意識的な生活を抑圧することにより、第二には彼女を性的なものにすることによってである。
エベルツの言っていることは正しい。男性は支配することによって人生を理解する。支配するためにはそれを分割しなければならない。∪貯達ΦΦけ一白℃Φ雷(分割して統治する)が彼の原理である。しかるに女性は人生と親しく交わることによってそれを理解する。彼女の原理はこの親交を確立することである。男性的原理の性格からして、彼のためにはこれら二つの原理はたがいに他を排斥しなければならないが、反対に女性的原理の性格からは、これら二つの原理はたがいに非常によく相補い合うことができると彼女には思われる。しかるに男性は、いか\'に支配すべきかを知らないところのものの存在を認めないので、女性は男性を理解し彼と交わるためには彼の原理を自分のものとしなければならない。
シュミッツは、「男性の原理は、それ自体は決して相対的に強いものではない。それはただ男性の中にある場合にのみ強いのである。女性的原理は女性に力を与える」と言っている。しかし、わたしは次のように言えると思う。すなわち、女性漿いては、女性の力は、女性の精神的な適応性が女性をして男性の原理にしたがって考えることを得しめる程度まで弱くなるのであると。しかして男性は、・女性それ自身の性質にしたがって彼女を判断したり評価したりすることができないので、女性は非常…な打撃を蒙るのである。
男の場合は反対で、彼の弱さは彼の強さである。彼は自分自身の範疇以外の範疇を把握することができないので、自らの範疇を規準として設定し、これを全世界に課することは彼にとっては当然のことである。
エベルツは、女を性的なものにすることを、彼女の個性破壊の第二の「方法」と称している。「正常な」性生活に対する権利を擁護する著書を読む時、それがこの論義の余地のない規範の前提としていることは何であるかが、自ら疑問となる。性的なものに注目するということが男女の身体的要求に対する譲歩に過ぎなくなる、それはその意義をう..なんとなれば、その時本来かくあるべきことの全く逆なことが生ずるからであるち、そこには単性的女性の自己陶酔に対抗する単性的男性の自己陶酔という事態が生ずる。それが、少なくとも女性にとって向こうみずな孤立化を招来するということ、女性の自発的な力を歪めあるいは殺すということは明白である。
この点においても女性は目覚めなければならない。彼女はいわゆる「ロマンチックな愛」を郷楡することをもう少しさし控えるべきである。また現代の事実をもっと明確に鋭く観察すべきである。そうすればおそらくそこでも自分がいい得ることについて沈黙し、自.`カすることに身を委ねて㍉ることを発見するであろう。これらの中には多くの間噛た恥辱がある。女性のエロスに対する男の理解の欠如は、彼自身の中に歪められて発達したある要素ーそれが外界へ投影するとき必ずしも現実と調和しないところのある要素1を蔑視することから生ずる場合が非常に多いということを忘れてはならない。男が軽蔑もし同時に恐れてもいるものは、彼の、在意識の中にある女性的要素である。普通、燗眼の士は、男性におけるこれらの要素の発達段階を、彼の女性観によって直ちに認識することができる。この点において男性の解放は緊急を要する。というのは彼の原始状態は女性の進歩にとってのみならず、男性自身の進歩にとっても容易ならぬ障害だからである。そこにおいてミーダー博士のいうごとく、男女の人間化が実現されるために、男性は女性の発達にしたがって自らを変容しなければならな
無数の不幸な結婚や離婚に徴して、われわれはそれが真実でないことを知っている。たしかに神は、われわれの安価な人生観を祝福してはい給わない。多くの結婚が失敗するのは、当事者が等しく、相互理解の意味においてでなく性科学者の意味において強力に啓発されてその生活を始める,からでる貞節ということはこの相互理解がなくては曖オ冠である。不義より悪しき貞節がある。それは、結婚のゆきづまりに対する貞節であり、現状維持に対する貞節である。
それは、男性が自分の仕事と自分の将来のためにのみ生き、結婚をただ骨休めとして利用し、妻がより深,い望みに関しては彼の邪魔をしないでおいてくれるならば、「理想的な夫」としてあらゆる彼女の気ままに屈服しているというような場合に見出される。また同じことは、結婚の唯一の意義が母たることに存し「夫をも含めてあらゆるものを子供のために犠牲にして、結局は皆の不幸に終らせるような女性の貞節についてもいえる。例はいくらもあるであろう。
いずれの場合においても、当事者は、たとえ世間的には最も模範的な夫婦であっても、真の意味で結婚しているのではない。教会はかかる戯画的結婚を解消する立場に立っべきである。結婚の意義を知ってはいるが、心理的または他の理由のために、離婚したもののように暮さなければならない人々がたくさんいることも明白である。彼らは全然別れるべきであろうか。わたしはそれは彼らの信仰如何によると思う。神が彼らを結ぶために奇跡を行い給うかも知れない。あるいは、彼らの知り得ぬ理由によって、神は彼らがそのまま一緒に暮すことを欲し給うかも知れない。一方が他方の信仰によってそれを信ずるに至るかも知れない。
たとえ彼らの苦難は耐えがたいものであろうとも、彼らがその-まま共に暮すということにはその意義がある。ある場合には、殉教者の信仰が必要な場合もあり得る。しかしそれはすべての人に与えられているわけではない。いずれにしても人間は彼ら自身の間では互いにかかる要求を突きつける権利はない。それは個人と神との間の問題である。
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